もう一つの目的 [骨髄バンク]
日々自転車のために鍛えた体、自転車競技だけに使うのはもったいないです。
ツーリングやトレイルラン、ハイキングなど体を使った遊びは疲れる前に楽しめる。
これが逆で楽しめる前に疲れたら面白くないしね。
子供遊ぶのも全力で遊べる。
子供と一緒に遊んでいると、
”お父さん元気でいいね”と近所の人に言われます。
健康で元気でいれば、子供だった元気になると信じて一緒に走り回っています。
■骨髄バンク
大分昔に骨髄バンクのドナー登録について書いたことがありますがもうちょっと詳しく。
今から25年前、妹が白血病になりました。
当時、日本では白血病の治療は今のように確立されていなく、ほぼ”死”を意味する病気。
私と2歳離れた妹は中学生だった。
妹の余命が宣告されてから、家族はこの病気と闘うことになるが、今考えると、両親の悲しみとその後の苦労は想像を絶する。
私といえばノータリンの高校生。
事の重大性、妹、親の気持ちもほとんど分からずいた。
ただ、妹が死ぬかもしれないといった悲しみは今も忘れない。
明るかった両親もすっかり落ち込み、家族はどん底に落とされた暗い日々を送る。
しかし、ある日親父が
”いつまで泣いていても仕方ない、笑って日々を過ごそう”と言った。
家から笑い声が聞こえるようになって、近所からは娘さんの病気が治ったの?と言われるが、必死に悲しみから逃れる家族が出来ることは笑うことだった。
妹には病名を隠して、日々病院や当時の厚生省に足を運ぶ親父。
白血病は精神的なダメージだけではなく、経済的なダメージも大きい。
当時は分からなかったが、後になってものすごい額の治療費が湯水のように流れて、その資金や援助を受けるために親父は相当頑張ったようだ。
一度妹が死に掛けたとき病院に呼ばれ、家族は覚悟を決めていた。
奇跡的に意識を取り戻し、新しい治療が始まった。
骨髄移植。
当時この聞きなれない言葉にどんなことをするのか知識などなかった。
白血病とは”血液のがん”と言われる病気。病気に関しては詳しく書かないが、治療では病気に犯された白血球を一度根絶するため、致死量に近い放射線と抗がん剤で造血組織を破壊し、ドナーから移植された骨髄液で造血幹細胞が根付き、造血を始めて移植は完了するというもの。
しかし、骨髄液は誰のでもいいというわけではなく、白血球の型、HLA型が合わないと移植はできない。
骨髄バンクの無かった時代、それは肉親に頼るしかなく、兄弟でも1/4の確率でしか合わないので、妹の病室にいた患者さんは日を追うごとに少なくなっていった。
運よく私と妹のHLA型は移植レベルの値を超える適合値だった。
これで家族に希望が持てた。
しかしながら、移植の前の段階で妹は弱りきっていった。
放射線治療、抗がん剤投与で髪の毛はもちろん、まつげまでなくなってしまった。
日々続く治療にどれだけの苦しみがあったか。
また、その後続く無菌室での生活は家族と接触できず、インターフォーンでガラス越でしか会うことができない。
ガラスの向こうで辛い治療に苦しむ娘に触れることさえ出来ない両親の心中はどんなものだったのだろうか?
ドナーとなった私は、交通事故や怪我に気をつけなければ成らないが、そんなのは妹、両親の苦労からすればゴミみたいな物。
移植当日のことは今でも鮮明に覚えている。
親戚、家族が祈るようにして移植の成功を願う中、麻酔を打たれただるくなった体をベット預け、手術室に運ばれて行く。
大きなライトが天井いっぱいに広がり、麻酔用のマスクをはめさせられ3回ほど呼吸をしたら意識が無くなった。
起きると強烈に腰に痛みが走る、バットで殴られたような痛み。
200ヶ所ぐらいに腰から骨盤の中にある骨髄液を注射で抜き取られた。
今は3ヶ所から取るようでこのような痛みは伴わないらしいです。
看護婦さんから”妹さんは無事ですよ。移植は成功です。”と聞かされ、妹が死なずにすんだと嬉しくなった。そして、それまで家族のために何一つ役に立たなかった自分が貢献できたことにほっとした。
日本では7例目の移植だった。
術後の経過は良好でだった。
時間と共に再発の可能性は低くなっていくが、現実問題として成人した妹は今後どう社会生活をして行くか、両親は心配した。
病気で身体的に傷を負ってしまった妹は普通の女性が送る、就職、結婚、出産、子育てなど、家族を作ることは難しいく、両親は妹の将来のことを考え飲食店をやることにした。
病気がすべてを変えてしまった。
しかし、その心配はいい意味で裏切られた。
なんと妹が妊娠。
主治医もそんなことは絶対にありえないと驚く。
大量の抗がん剤と放射線治療で生まれてくる子供がどうなるか分からないというリスク、もちろん家族は反対したが妹と彼(義弟)は覚悟を決めて、そうなってもいいと。
骨髄移植後出産をしたのは世界的にも例がほとんどない。
無事五体満足の男の子が生まれ、その後第二子の男の子も授かる。
失いかけた命がつながり、その命が次へと引き継がれた奇跡の出来事だった。
私はただ型が適合したから移植のドナーになっただけで何もしていないといつもちょっと後ろめたい気持ちがある。
正直言えば家族の中で自分だけそんなに苦労していない。
だからと言うわけではないですが、自分なりの経験と思いを生かして、骨髄バンクに登録しています。
登録してから結構月日が流れ、最近になり登録しているとう受身な姿勢ではなく、他の人より経験をしているんだからもっと外に向かって啓発してもいいと。
ブログや自転車のおかげでいろんな人とふれあう機会あるし、もっとそういったことを発信していいと思う。
今年から自転車で走るもう一つの目的がこの骨髄バンクのことを多くの人に知ってもらうこと。
他人でも型が合えば移植は可能で、ドナー登録が多ければ多いほど病気で苦しむ患者やその家族の生きていく希望の確率が高くなる。
せっかく元気な体、いろんな病気で悩まされている人から見ればありがたいことです。
病気になって苦しんでいる人がいるからこそ、医療が発展して人々はその恩恵を受けていると思います。
ドナーにはいろいろなリスクもあります。
ドナーになるだけが貢献ではなく、このことを他の人に知ってもらうことも一つの貢献と思います。
財団法人骨髄バンクの千葉様の協力を頂きステッカーをもらいました。
今後出るレース会場に持って行きますので、自転車につけてもいいという方がいれば差し上げますのでよろしくお願いします。
また、今後自主的にリストバンドなど作ろうと思っています。
近いうちにステッカーなどの写真をアップします。
骨髄バンクについて詳しくは
↓
http://www.jmdp.or.jp/
今でも私の腰の辺りには骨髄液を抜き取った注射の痕が残っています。
(現在の移植方法では痕はほとんど分からないようです)
ツーリングやトレイルラン、ハイキングなど体を使った遊びは疲れる前に楽しめる。
これが逆で楽しめる前に疲れたら面白くないしね。
子供遊ぶのも全力で遊べる。
子供と一緒に遊んでいると、
”お父さん元気でいいね”と近所の人に言われます。
健康で元気でいれば、子供だった元気になると信じて一緒に走り回っています。
■骨髄バンク
大分昔に骨髄バンクのドナー登録について書いたことがありますがもうちょっと詳しく。
今から25年前、妹が白血病になりました。
当時、日本では白血病の治療は今のように確立されていなく、ほぼ”死”を意味する病気。
私と2歳離れた妹は中学生だった。
妹の余命が宣告されてから、家族はこの病気と闘うことになるが、今考えると、両親の悲しみとその後の苦労は想像を絶する。
私といえばノータリンの高校生。
事の重大性、妹、親の気持ちもほとんど分からずいた。
ただ、妹が死ぬかもしれないといった悲しみは今も忘れない。
明るかった両親もすっかり落ち込み、家族はどん底に落とされた暗い日々を送る。
しかし、ある日親父が
”いつまで泣いていても仕方ない、笑って日々を過ごそう”と言った。
家から笑い声が聞こえるようになって、近所からは娘さんの病気が治ったの?と言われるが、必死に悲しみから逃れる家族が出来ることは笑うことだった。
妹には病名を隠して、日々病院や当時の厚生省に足を運ぶ親父。
白血病は精神的なダメージだけではなく、経済的なダメージも大きい。
当時は分からなかったが、後になってものすごい額の治療費が湯水のように流れて、その資金や援助を受けるために親父は相当頑張ったようだ。
一度妹が死に掛けたとき病院に呼ばれ、家族は覚悟を決めていた。
奇跡的に意識を取り戻し、新しい治療が始まった。
骨髄移植。
当時この聞きなれない言葉にどんなことをするのか知識などなかった。
白血病とは”血液のがん”と言われる病気。病気に関しては詳しく書かないが、治療では病気に犯された白血球を一度根絶するため、致死量に近い放射線と抗がん剤で造血組織を破壊し、ドナーから移植された骨髄液で造血幹細胞が根付き、造血を始めて移植は完了するというもの。
しかし、骨髄液は誰のでもいいというわけではなく、白血球の型、HLA型が合わないと移植はできない。
骨髄バンクの無かった時代、それは肉親に頼るしかなく、兄弟でも1/4の確率でしか合わないので、妹の病室にいた患者さんは日を追うごとに少なくなっていった。
運よく私と妹のHLA型は移植レベルの値を超える適合値だった。
これで家族に希望が持てた。
しかしながら、移植の前の段階で妹は弱りきっていった。
放射線治療、抗がん剤投与で髪の毛はもちろん、まつげまでなくなってしまった。
日々続く治療にどれだけの苦しみがあったか。
また、その後続く無菌室での生活は家族と接触できず、インターフォーンでガラス越でしか会うことができない。
ガラスの向こうで辛い治療に苦しむ娘に触れることさえ出来ない両親の心中はどんなものだったのだろうか?
ドナーとなった私は、交通事故や怪我に気をつけなければ成らないが、そんなのは妹、両親の苦労からすればゴミみたいな物。
移植当日のことは今でも鮮明に覚えている。
親戚、家族が祈るようにして移植の成功を願う中、麻酔を打たれただるくなった体をベット預け、手術室に運ばれて行く。
大きなライトが天井いっぱいに広がり、麻酔用のマスクをはめさせられ3回ほど呼吸をしたら意識が無くなった。
起きると強烈に腰に痛みが走る、バットで殴られたような痛み。
200ヶ所ぐらいに腰から骨盤の中にある骨髄液を注射で抜き取られた。
今は3ヶ所から取るようでこのような痛みは伴わないらしいです。
看護婦さんから”妹さんは無事ですよ。移植は成功です。”と聞かされ、妹が死なずにすんだと嬉しくなった。そして、それまで家族のために何一つ役に立たなかった自分が貢献できたことにほっとした。
日本では7例目の移植だった。
術後の経過は良好でだった。
時間と共に再発の可能性は低くなっていくが、現実問題として成人した妹は今後どう社会生活をして行くか、両親は心配した。
病気で身体的に傷を負ってしまった妹は普通の女性が送る、就職、結婚、出産、子育てなど、家族を作ることは難しいく、両親は妹の将来のことを考え飲食店をやることにした。
病気がすべてを変えてしまった。
しかし、その心配はいい意味で裏切られた。
なんと妹が妊娠。
主治医もそんなことは絶対にありえないと驚く。
大量の抗がん剤と放射線治療で生まれてくる子供がどうなるか分からないというリスク、もちろん家族は反対したが妹と彼(義弟)は覚悟を決めて、そうなってもいいと。
骨髄移植後出産をしたのは世界的にも例がほとんどない。
無事五体満足の男の子が生まれ、その後第二子の男の子も授かる。
失いかけた命がつながり、その命が次へと引き継がれた奇跡の出来事だった。
私はただ型が適合したから移植のドナーになっただけで何もしていないといつもちょっと後ろめたい気持ちがある。
正直言えば家族の中で自分だけそんなに苦労していない。
だからと言うわけではないですが、自分なりの経験と思いを生かして、骨髄バンクに登録しています。
登録してから結構月日が流れ、最近になり登録しているとう受身な姿勢ではなく、他の人より経験をしているんだからもっと外に向かって啓発してもいいと。
ブログや自転車のおかげでいろんな人とふれあう機会あるし、もっとそういったことを発信していいと思う。
今年から自転車で走るもう一つの目的がこの骨髄バンクのことを多くの人に知ってもらうこと。
他人でも型が合えば移植は可能で、ドナー登録が多ければ多いほど病気で苦しむ患者やその家族の生きていく希望の確率が高くなる。
せっかく元気な体、いろんな病気で悩まされている人から見ればありがたいことです。
病気になって苦しんでいる人がいるからこそ、医療が発展して人々はその恩恵を受けていると思います。
ドナーにはいろいろなリスクもあります。
ドナーになるだけが貢献ではなく、このことを他の人に知ってもらうことも一つの貢献と思います。
財団法人骨髄バンクの千葉様の協力を頂きステッカーをもらいました。
今後出るレース会場に持って行きますので、自転車につけてもいいという方がいれば差し上げますのでよろしくお願いします。
また、今後自主的にリストバンドなど作ろうと思っています。
近いうちにステッカーなどの写真をアップします。
骨髄バンクについて詳しくは
↓
http://www.jmdp.or.jp/
今でも私の腰の辺りには骨髄液を抜き取った注射の痕が残っています。
(現在の移植方法では痕はほとんど分からないようです)